野洲川の歴史

野洲川改修事業について

野洲川の概要

野洲川は、その源を鈴鹿山脈の御在所岳に発し、田村川、杣川等の支流を合わせて平野部に達し、河口から5km地点において二川に分かれて南流、北流となって琵琶湖に注いでいました。現在は新しい川(放水路)になって琵琶湖に注いでいます。

上流部の山地は急峻で、中流域は丘陵性の山地が連なっています。比叡山延暦寺の建立のために野洲川の上流域から用材を切り出した記録があるように、伐採が繰り返されたこともあり、洪水のたびに多量の土砂が流出した結果、わが国最大の湖成三角州を形成するとともに、下流部では河床が周辺の宅地等の地盤高より高い天井川となっていました。昔の野洲川の河口部は、派川により八つの洲をなしていたことから八洲川と呼ばれ、これが後に野洲川となったといわれています。

過去の災害

野洲川は、土砂流出が激しい天井川であったため、堤防が決壊し家屋の流出、田畑の浸水等の水害がたびたび発生しており、その記録が古文書等にも残っています。主な災害の記録は次のとおりです。

発生年月日 被害の主な内容
明治18年7月 (台風) 堤防決壊2箇所のべ240m、田畑浸水200ha
明治29年9月 (台風、前線) 死者7名、流出家屋78戸
明治33年9月 (台風) 堤防決壊、橋梁流失
大正2年10月 (台風) 堤防決壊、死者31名、流出家屋21戸、田畑浸水300ha
大正3年7月 (前線) 死者2名、田畑浸水10ha
昭和28年9月 (台風13号) 堤防決壊3箇所のべ450m、死者3名、田畑浸水300ha
流出家屋683戸
昭和34年9月 (伊勢湾台風) 床上浸水(野洲市)
昭和40年9月 (台風24号) 堤防決壊11箇所、死者1名、家屋全半壊41戸
昭和46年8月 (台風23号) 堤防決壊8箇所のべ710m 田畑浸水124ha

河川改修の必要性

野洲川の河幅は、中流部(河口より9km付近)で約600mですが、旧南北流の河口付近では極端に狭くともに約100mでした。河川の流下能力も、中流部では毎秒6000立方メートルに対し、河口部の南流で毎秒350立方メートル、北流で毎秒500立方メートル、両方合わせて毎秒850立方メートルでした。また、河床と周辺の宅地等の地盤高の高低差は、昭和33年時点で旧南北流分流地点で、約2mも河床が高くなっていました。
旧南北流の堤防の付近には多くの集落があり、堤防の決壊のたびに大きな被害を受けてきました。

改修事業の概要

昭和28年の台風13号による大災害がきっかけとなり、地元より抜本的な河川改修を望む声が高まり昭和33年から河川改修のための調査が始められました。
改修のためには、水田200ha、住宅42戸の移転が必要となりましたが、関係住民の方々の治水事業に対する深い理解と、関係当局の地域の保全と開発に対する熱意によって昭和45年に交渉がまとまり、昭和46年9月から放水路工事に着手することになりました。その後、昭和54年6月に新放水路への通水を行い、昭和60年度に落差工から下流について工事がほぼ完成しました。

昭和40年頃 航空写真
昭和50年頃 航空写真